2018年3月28日水曜日

コミュニケーション障害の誤解

「コミュニケーション障害」という障害があります。私もこの障害を持っているのですが、健常者に「私はコミュニケーション障害がある」と言うと多くの場合「そうは見えない」と言われます。
そしてその理由を尋ねると、「それなりにしゃべるから」「聞き上手だから」「友好的だから」などの言葉が返ってきます。どれもコミュニケーション障害の人でも持ちうる要素です。
世間では「コミュニケーション障害」は「対人関係が苦手な人、億劫な人」という意味で定着しおり、ネットには自称コミュ障がたくさんいますが、この定義は誤りです。
コミュニケーションとは「人が互いにに意思・感情・思考を伝達しあうこと」で、本来のコミュニケーション障害とは大まかに言えば「コミュニケーションにしばしば齟齬が生じること」です。
つまり、対人関係が苦手だろうと、対人関係が億劫だろうと、コミュニケーションに齟齬が生じていなければコミュニケーション障害ではないのです。 ですので、コミュニケーション障害の人であっても、友好的な人、友人が多い人、よくしゃべる人、話すのが好きな人、明るい人が多くいます。
では、本来の「コミュニケーション障害」の人とはどのような人なのでしょうか。正確には身体的な原因のもの等も含むのですが、ここでは発達障害に限定した場合の「コミュニケーション障害」を説明します。

(1)皮肉やお世辞がわからない

相手が言ったことを額面通りの意味で受け取ってしまいますので、皮肉やお世辞がわかりません。
また逆に、自分が相手に言った言葉も額面通りに受け取られることしか想定できないため、自分は言葉の通りの意味で言ったはずが相手には皮肉やお世辞として伝わっていたと言うことが発生します。

(2)空気が読めない・察することができない

齟齬が生じるのは言語によるコミュニケーションだけではありません。所謂、「空気が読めない・察することができない」状態です。場の雰囲気にそぐわない発言や行動をしたり、最悪は場の雰囲気をぶち壊す発言や行動をします。
相手や集団から発せられる非言語情報の受け取りに齟齬が生じている状態と言えます。

(3)自覚がない場合が多い

コミュニケーション障害の人の多くは、自分がそうであるという自覚がありません。自覚がある人でも、それは人から指摘されて初めて気づいた人達です。
私の場合、27 歳の時に医師から「コミュニケーション障害がある」と言われましたが、「そんなバカな」と受け入れませんでした。それから何年かして、仕事で上手くいかない理由を探していてようやく自覚に至りました。

(4)不安を抱えている(自覚した人のみ)

コミュニケーション障害の人がそうであると自覚したからといって、それが治るわけではありません。
自覚したまでは良いのですが、実際にどの場面でコミュニケーションに齟齬が生じているかは当人にはわからないのです。それがわかったらそもそも齟齬なんて生じません。
わからないが故に、「今話したことは相手に正しく齟齬無く伝わっただろうか」「自分は相手の言っていることを正しく齟齬無く受け取れているのだろうか」という 2 つの不安が常時付きまといます。常時ですから、自分が何か話す都度、相手が何か話すのを聴く都度です。

以上が、発達障害に限定した場合の「コミュニケーション障害」の特徴です。
ネットに大勢いる自称コミュ障の人達が偽物であること、実際のコミュニケーション障害は自分ではわからないことなどがおわかりいただけたと思います。
もしもあなたのそばに「医者からコミュニケーション障害と診断された」という方がいらっしゃったら、上記のことを思い出して接していただければ幸いです。

2018年3月14日水曜日

健常者と区別がつかない発達障害者

(追記あり:2018年3月27日 火曜日 21:57:00)

発達障害は精神の障害なので見た目は健常者と同じですが、実際に会話等してみると「あれ?この人何かおかしい・・・」と思われる場合が多いです。
しかし逆に、発達障害者と接して「あれ?この人健常者と同じじゃね?どこが障害者なの?」と思ったことのある健常者の方も少なからずおられるのではないでしょうか
発達障害で精神障害の手帳を取得しているはずの人なのに、その人と実際に接しても何が障害なのかわからない、健常者と区別がつかないというケースです。
今回は、この「健常者と区別がつかない発達障害者」について書きたいと思います。

(1)障害を隠蔽する

発達障害は生まれつきの障害なので、当然生まれた時から障害による不自由を強いられています。
また、あくまでも“病気”ではなく“障害”なので、“治る”ということがありません。
しかし健常者を真似して見かけ上だけ“隠蔽”することは色々工夫することである程度のレベルまでは可能です。
ただ、ここ注意してほしいのは、あくまでもそう見えるように振る舞っているだけであり、健常者と同じようにできているわけではないということです。
例えば、「話を聞いて相づちを打つのが苦手」という発達障害者がいたとします。
この方は、決して相手の言っていることが理解できていないわけではないのですが、会話のどこで相づちを打てば良いのかわからないために相づちを打てず、しばしば「ちゃんと話を聞いているのか!?」と怒られていました。
そこでどうしたかというと、相手の言葉の句切りの部分でとにかくうなずくようにしました。文章でいうと句点(。)が来たらとにかくうなずくのです。
すると、「ちゃんと話を聞いているのか!?」と怒られることはなくなったそうです。つまり、見た目上は健常者に見えるようになったのです。
しかし、この方が健常者と同じように相づちを打てるようになったのかと言えば答えは「否」でしょう。
あくまでそう見えるように工夫しただけで、健常者と同じように相づちを打てるようになったわけではありません。
機械的に言葉の句切りの部分でうなずいているだけなので、長時間この方と会話していると「あれ?このタイミングでうなずくのはおかしくないか?」と思われる場面がやはり出てきます。
しかも、相手の言葉の句切りの部分でタイミング良く相づちを打つためにはそれに意識を振り向け、ある程度集中する必要があります。
しかし、会話というのは相手の話していることを理解したり、こちらから話す文章を構築することにも頭を使わなければなりません。
相手の話していることを理解し、こちらから話す文章を構築しながら相手の言葉の句切りの部分に意識を集中してタイミング良く相づちを打つのです。
当然、脳はフル回転になりますから、頭が超疲弊します。会話が終わったらくたくたの放心状態です。
このように、障害を“隠蔽”して健常者に見えるようにするにはとても多大な労力が必要であり、にもかかわらず完全に隠蔽することは難しいのです。

(2)健常者を模倣する

障害を“隠蔽”ではなく、健常者を“模倣”する場合もあります。
私の例で説明しますが、私は「場の空気を読むのが苦手」です。
しかし完全ではないにしろ、所謂「空気読めない発言」を最小限に抑えることに成功しています。
どうやっているかと言いますと、とにかく周囲を意識して観察しまくります。
例えば、会議室で私を含めて 10 人で会議していたとします。
この時私は他の 9 人に意識を向け、各人の表情・仕草などを観察することで場の雰囲気を推測します。
・・・と書くと必ず健常者から突っ込みが入ります。
「そんなの、健常者だって同じだよ。皆そうやって場の空気を読んでる」
健常者の方が言うのですから、健常者もそうなのでしょう。
ただ健常者の場合、「他の 9 人に意識を向け、各人の表情・仕草などを観察することで場の雰囲気を推測する」ということが「周囲をチラ見する」という行動だけで無意識のうちに完了してしまうのです。
無意識のうちに完了するわけですから、頭はさほど疲れません。
対して私の場合、意識してある程度集中力を働かせて行う必要があります。
しかも会議なのですから話している人の話の内容からも意識を外すことができません。
ですので、話し手の話の内容に意識を集中しつつ、他の 9 人にも意識を向けて表情・仕草などを観察しなければなりません。
そうなると当然、脳はフル回転になりますから、頭が超疲弊します。しかも、そんなに頭をフル回転させても場の空気を健常者と同じ精度では読めないのです。
これをわかりやすく例えると次のようになります。
あなたは今地面に立っているとします。そして、あなたから前方 3m 先にテーブルがあり、その上にリンゴが 1 個置いてあるとします。
ここでリンゴを取ってもとの場所へ戻る動作を考えてみたいと思います。
健常者なら次の手順のようにするでしょう。

  1. テーブルの前まで歩く
  2. リンゴを掴む
  3. 回れ右する
  4. 元の場所まで歩く
簡単ですね。
この時、もしこの手順がわからなかったら知的障害者です。歩いて行きたくても脚が無かったら身体障害者です。
では、これが苦手な発達障害者がいたとしたらどうなるのでしょうか。
  1. テーブルの上のリンゴを目で確認して距離を目算する
  2. 前脛の筋肉に少し力を入れて重心を前に移動する
  3. 右大腿筋に力を入れて右脚を上げる
  4. 各部の筋肉を可動して全身のバランスを取る
  5. 右下腿を前方に動かすために筋肉に力を入れる
  6. 左脚を・・・(以下略)
これが発達障害者が健常者を“模倣”するときの手順です。“模倣”するために、健常者が意識していない細かい手順を意識して処理します。
最終的には健常者と同じ動作でリンゴを取って戻ってきますが、上記を一々意識して動いていたら脳が相当疲弊することは想像に難くないでしょう。
健常者と同じスムーズな動きに見せようとすればするほど脳の負担は増していきます。また、処理手順の多さから時々うっかり手順が抜けることもあります。
このように、健常者を“模倣”するにはとても多大な労力が必要であり、にもかかわらず完全に模倣することは難しいのです。
なお、この例はあくまで発達障害者が苦手なことを健常者を“模倣”する時のイメージです。発達障害者であっても、苦手ではないことは健常者と同じ処理手順で普通に処理できますので誤解無きようにお願いします。

以上のように、「健常者と区別がつかない発達障害者」というのは障害を“隠蔽”、あるいは健常者を“模倣”することがある程度上手くいっている人達のことです。
ですので、見た目が普通でも決して健常者と同じではないのです。違和感なく見せるために多大な労力を払っているのです。
コンピュータに例えると、脳内で「健常者エミュレータ」が常時稼働しているようなもので、それが稼働しているため健常者に見えますが、脳のリソースの一部は常時エミュレータに取られています。
ただ、それが理解されないがために、時には「あいつは根性がたりない」と誤解されたり、健常者と同じ仕事量を振られて能力限界を超え、過労で鬱になる場合が結構あります。
もし、あなたが「健常者と区別がつかない発達障害者」と出会ったら、「ああ、この人は今、頭がフル回転しているんだな」と思っていただければ幸いです。

 

【追記:2018年3月27日 火曜日 21:57:00】

既に“隠蔽”と“模倣”の 2 つのケースを挙げましたが、3 つ目がありましたので追記します。

(3)本来とは別の能力で代替する

じつはこのケースは既に過去の記事「発達障害にできる仕事」の罠 (2013年7月13日) にてご紹介済みです。
当該記事では電卓の例を使って分かりやすく説明してありますので、詳細はそちらをご参照ください。
大まかに言いますと、本来はその仕事をする能力は無いが別の能力を代わりに使って見た目上健常者と同じことが出来ているように見えることです。
本来とは別の能力で“代替”しているので、見た目上は健常者と同じですが疲労度まで同じとは限りません。
“代替”した能力がとても優れていて、健常者よりも少ない疲労度で仕事ができるなら何も問題はありませんが、そのようなケースは極めて稀です。大抵は健常者よりも多大な疲労を伴うことが多く、健常者と同じ仕事量を振られるとやはり能力限界を超えて過労で鬱になる場合があります。

以上、“隠蔽”“模倣”“代替”と 3 つのケースをご紹介しましたが、もしかしたらまだ私の知らない他のケースがあるのかもしれません。

2018年2月15日木曜日

「配慮してほしい」は甘えではない

発達障害は障害なので、仕事や生活面で周囲に対していくつか配慮をお願いすることがあります。
「複数の仕事を一度に依頼するときは優先順位を明確にしてほしい」
「仕事を依頼する時に私がメモをとる時間をいただきたい」
「ゆっくり、はっきりしゃべってほしい」
「電話応対を免除してほしい」
他にも発達障害者によって各々多種多様なお願いをさせていただくわけですが、
お願いされた健常者の方によっては、「努力もせずに配慮を求めるのは甘え。まずは実際にやって努力して、それでもダメなら配慮する」と言われて配慮を拒否されることがあります。
どうやら健常者の目には、発達障害者が何も努力をせずに配慮を求めているように映ることが多いみたいです。
まずは実際にやって努力してそれなら・・・、という考えは間違ってはいませんが、発達障害者が何も努力をせずに配慮を求めているというのは大きな誤解です。
何がどう誤解なのかご説明します。

発達障害は生まれつきの障害なので、最初は自覚がありません。中には発達障害でありながらも気がつかずに一生を終える人もいます。
彼らは自覚はありませんが、種々の障害を持っていますから、当然それらを克服しようと努力します。
努力と試行錯誤で工夫を重ね、健常者の何倍もの労力を日々費やしてなんとか普通に生活している人もいます。ちなみにそうして普通に生活している人は、その苦労を他の人も当たり前にやっているものだと思い込んでいます。故に、自分だけが苦労しているという自覚はありません。
そして当然のことながら努力と試行錯誤で工夫を重ねてもどうにもならない人がいます。しかし彼らは自分が発達障害だという自覚がありませんから、延々と努力と試行錯誤で工夫を重ね続ける日々を送ります。来る日も来る日も続くのです。
中には疲れ果てて自ら命を絶つ人もいますが、何かのきっかけで精神病院を受診して医者から「あなたは発達障害です」と診断が下されて初めて自分が発達障害であることを知ります。
めでたしめでたし・・・、とはなりません。まだ試練は続きます。
自分が発達障害であることはわかっても、自分が苦手なこと全てが発達障害によるものとは限らないからです。
例えば電話応対が苦手だとして、それが発達障害によるものであればいくら努力しても克服は不可能です。しかし、もしそれが発達障害によるものでなかったら、もしかしたら努力し続けたら苦手を克服できる日が来るかもしれません。
今日ダメでも明日には克服できるかもしれない。明日がダメでも明後日には・・・。それはダイヤモンドの鉱脈を探して山を掘り進むのに似ています。この山にダイヤモンドは全く埋まっていないかもしれない。でも掘り続けたらダイヤモンドを見つけられるかもしれない。あと 10 cm掘り進めたらダイヤモンドを見つけられる状態かもしれない。そんな思いに駆られるのです。
故に、発達障害の診断が下っても延々と努力と試行錯誤で工夫を重ね続ける日々が続きます。
しかし、人間の精神力は無限ではないのでいつかは尽きて諦めることになります。
「この歳まで努力して頑張ってもダメなのだからもう諦めても良いよね」と思い、やっと解放されるのです。
ちなみに私が解放されたのは 30 歳の時でした。「30 年頑張って努力してダメだったんだからもう諦めても良いよね」と思い、今できないことは全て障害のせいとやっと割り切ることができました。

そのようなわけで、「配慮してほしい」と言うのは甘えではないのです。
何も努力せずに「できないから配慮して」と軽い気持ちで言っているわけではないのです。
ぶっちゃけ、本当は「配慮してほしい」なんて言いたくないんです。
上記のような何年もの努力と苦悩を経て出しているとても重たい言葉なのです。
もしあなたが健常者で、発達障害者を使う立場になった時に「配慮してほしい」と言われたら、ここに書いてあることを思い出していただければ幸いです。

2018年2月14日水曜日

「そんなの誰にでもあるよ」に反論できない

発達障害の症状は、症状そのものは健常者でもよくあるものが多いです。
待つのが苦手、空気を読むのが苦手、片付けが苦手などは確かに健常者でもよくあるものです。
それ故、発達障害者が健常者に具体的な症状を伝えると「そんなの誰にでもあるよ。」と返されることがよくあります。時には「それを配慮してくれというのは甘えだよ」という追加攻撃まで来くることもあります。
確かに症状そのものは健常者でも誰にでもあるものが多いです。しかし、当ブログ「精神障害って何? 発達障害って何?」の記事でも書きましたが、「普通に生きていくことが困難なほど症状が重い」から障害なのです。「症状の内容は誰にでもあったとしても、症状の重さは誰にでもあるものではない」のです。
ところが、「そんなの誰にでもあるよ。」と言われた発達障害者の側が反論できないで終わる場合がとても多いのです。
何故でしょうか。健常者から見れば、相手に誤解されてしまったのですから、反論して誤解を解けば良いだけのはずと思うことでしょう。
というわけで、何故反論できないのかを説明したいと思います。

結論を先に言いますと、それは「自信がない」からです。
何の自信が無いのかと言いますと、「それは誰にでもあるものではない」と明確に否定する自信が無いのです。
何故自信が無いのか。それは、発達障害者は健常者がどういうものか知らないからです。
発達障害は生まれつきの障害ですから、発達障害者は健常者というものを経験したことがありません。発達障害者しか経験したことが無いのです。そして、経験したことが無いわけですから健常者がどういうものかを全く知りません。
健常者がどういうものかを全く知らないということは、健常者から「健常者はこうなんだよ!」と言われてもその真偽を確認する術が全く無いのです。
だから、「そんなの誰にでもあるよ」と健常者に言われた時、「誰にでもある」、つまりそれが「健常者でもある」かどうかが発達障害者には確認不能なのです。
確認不能なのですから、「そうじゃない!」と自信を持って否定することができないのです。
大抵の発達障害者は「もしかしたらこの健常者さんの言うとおりかもしれない・・・」と考えてしまって、全く反論できなくなってしまいます。

ではどうすれば良いのか。
発達障害者の側は、自信を持って否定していくしかありません。
普通に生きていくことが困難なほど症状が重いんです! 症状の内容は誰にでもあったとしても、症状の重さは誰にでもあるものではないんです!
と胸を張って訴えていくしかありません。たとえ自信が無くてもです。
逆に、健常者の側にはここまで書いたことを理解していただけるとありがたいです。理解まで行かなくても、知っておいていただけるだけでも結構です。
発達障害者はその名の通り障害者で、周囲の配慮無しでは生活していくことが難しいです。しかし、逆を言えば適切な配慮さえいただければなんとか生活していくことができます。
ここまで書いたことを知っておいていただけるだけでも立派な配慮です。

昨今、メディアなどで発達障害の症状などはよく報道されていますが、どのように理解すれば良いか、またはどのように配慮すれば良いかの情報はほとんど流れていません。
故に、このブログがその情報の穴を埋める一助になれば幸いです。

2018年2月13日火曜日

発達障害の大変さを説明する

前回から大分時間が空いてしまいましたが、基本的に更新するかどうかは管理人の気まぐれですのでご容赦を。

さて、前回は「できるからといって、健常者と同じようにできているとは限らない」ことを電卓の例で説明しました。
実のところ、この電卓の例は発達障害の大変さをわかりやすく説明する良い例ではないかと我ながら思っていたりします。
というわけで、何がどう良い例なのか発達障害の特徴を挙げつつ説明したいと思います。

ある会社の同じ職場に A さんと B さんの 2 人の社員がいました。
A さんと B さんはそれぞれ電卓を持っていて、A さんの電卓は普通の電卓。B さんの電卓は掛け算のボタンの無い電卓です。
ちなみに、彼らの持っている電卓は持ち主本人にしか見えません
ある日、彼らの上司が A さんと B さんに新しい仕事の指示を出しました。

上司:『10 × 10 の計算をしろ』

A さんは「[1][0][×][1][0][=]」で答えを出しました。
B さんは「[1][0][+][1][0][+][1][0][+][1][0][+][1][0][+][1][0][+][1][0][+][1][0][+][1][0][+][1][0][=]」で答えを出しました。
そして、

A さん:『100 です』
B さん:『100 です』

と報告しました。
それを聞いた上司は『2 人とも問題なく同じようにできているな』と判断しました。
次の日、上司は A さんと B さんにまた新しい仕事の指示を出しました。

上司:『100 × 100 の計算をしろ』

A さんは「[1][0][0][×][1][0][0][=]」で答えを出しました。
B さんは「[1][0][0][+][1][0][0][+]・・・(省略)・・・[+][1][0][0][=]」で答えを出しました。
そして、

A さん:『10000 です』
B さん:『い・・・10000 です。(疲労困憊)』

と報告しました。
それを聞いた上司は『2 人とも問題なく同じようにできているな』と判断しました。
次の日、上司は A さんと B さんにまた新しい仕事の指示を出しました。

上司:『今日から毎日、100 × 100 の計算をしろ』

A さんは毎日「[1][0][0][×][1][0][0][=]」で答えを出します。
B さんは毎日「[1][0][0][+][1][0][0][+]・・・(省略)・・・[+][1][0][0][=]」で答えを出します。
そして毎日、

A さん:『10000 です』
B さん:『い・・・10000 です。(疲労困憊)』

と報告し続けました。A さんは涼しい顔で、B さんは疲れた顔で。
B さんはとても疲れていましたが、『疲れているのは A さんも同じ! A さんも同じことができているのだから自分も頑張らなくては!」と思い、毎日頑張りました。
そうです。B さんは自分の電卓に掛け算のボタンが無いことを知りません。A さんの電卓に掛け算のボタンがあることも知りません。いえ、そもそもこの世に掛け算のボタンが存在することすら知りません。
だから、B さんは自分と A さんは同じ条件だと思い込んだまま頑張り続けました。
しかしある日、限界が来ました。B さんが電卓のボタンを押そうとしても指が動いてくれないのです。
B さんは上司に相談しました。

B さん:『すいません。この仕事は大変すぎて私にはもうできません。』

しかし上司は言いました。

上司:『何を言っているんだね。君は A 君と同じようにできてるじゃないか。できないなら仕方が無いけど、A 君と同じように出来ているのにやりたくないというのは怠慢だよ。それは認められない。』

上司はとりあってくれませんでした。
そうです。B さん本人だけでなく上司も B さんの電卓に掛け算のボタンが無いことを知らないのです。
また、B さん自身も自分の電卓に掛け算のボタンが無いことを知らないので、上司に反論することができませんでした。
そして、B さんは『自分は無能な人間なんだ』と思い込み、うつ病になって会社に行けなくなってしまいました。

内容は前回書いたのと全く同じです。それでは発達障害の特徴を挙げていきたいと思います。

(1)障害が他者から見えない

B さんの電卓は周囲の人から見えません。故に、B さんの電卓に掛け算のボタンが無いことも見えません。発達障害は外から見えないのです。

(2)障害があることを自分で気づかない

B さんの電卓には掛け算のボタンが無いわけですが、B さんは他者の電卓を見たことがないので、そのことを B さん自身が知りません。
発達障害は生まれつきの障害なので、発達障害者は健常者というものを経験したことがありませんから、健常者がどういうものかを知ることができない。健常者がどういうものかわからないから、健常者と自分を比較して違いの有無を確認できないということです。
故に、発達障害者は障害があることを自分で気づかないのです。

(3)障害の具体的症状が自分でわからない

B さんは A さんの電卓を見られないので、自分の電卓に掛け算のボタンが無いことを知ることができません。ましてや、この世に掛け算のボタンが存在することすら知りません。
発達障害者は漠然とした生き辛さを感じてはいるものの、それが具体的に障害のどういう症状が原因なのか自分でわからないのです。

(4)障害の具体的症状を相手にうまく説明できない

B さん自身が自分の電卓に掛け算のボタンが無いことを知ることができないわけですから、掛け算のボタンが無いことを上司に説明できません。
発達障害者は自身の障害の具体的症状を相手にうまく説明できないのです。

(5)どういう配慮をしてもらえば良いかわからない

もしも B さんが A さんの電卓を見ることができたら、B さんは「掛け算のボタンが無いから、それを使わない仕事にしてください」と上司に言うことができて問題は解決できました。しかし、実際には B さんは A さんの電卓を見ることができないのでそれはとても困難なことです。
発達障害者は障害の具体的症状が自分でわからないが故に、どういう配慮をしてもらえば良いかわからないのです。

以上です。いかがでしょうか。発達障害の何が大変かおわかりいただけましたでしょうか。
私自身、発達障害の大変さを健常者に理解してもらおうと今まで色々試してきましたが、この電卓の例を出すのが一番効果的でした。病院のデイケアの精神保健福祉士さんからも「わかりやすい」と言われました。

ちなみに、ここまで読んだ人の大半は「じゃあ、どうすれば良いの?」と思うことでしょう。私自身もそう思います。
ぶっちゃけ、一発解決する方法は現在のところありません。日常生活や仕事中で、おかしなところを周囲の人に指摘してもらったり、発達障害者どうしで情報交換したりしながら試行錯誤していくしかないのが現状です。
ただ、おかしなところを周囲の人に指摘してもらったりするにも周囲の理解が必要ですが、世間一般の理解はほとんど無いに等しいです。
上記の電卓の例はそんな周囲の理解を少しでも得られるようにするために私自身が考え出しました。
この電卓の例が少しでも読者さんのお役に立てれば幸いです。